幼い頃の思い出。
おとうさん。ありがとう。
私の父親は永松冨美雄と言います。
9月25日この世を去りました。
私は父・冨美雄に長男でありながら息子らしいことを何一つできませんでした。
阿蘇・内牧病院の先生・スタッフの方々には本当にお世話をかけました。素晴らしい大自然の中、環境的にとても美しい御病院で最期を迎えられたことを心より御礼申し上げます。
スタッフの方々もとても献身的で、遺族の私たちは先生をはじめとした皆さまに感謝いたしております。有難うございました。
湿っぽい話ですみません。49日をもうすぐ迎えます。それまでに心の整理をつけておかなければいけないと感じました。
私は
約4年に渡る闘病生活で数えるほどしか訪問できなかったことを悔やんでいます。
父へ。
僕の料理を作るこの両手は父親からもらったものだと確信しています。
幼稚園のころ竹トンボを作ったり、玉鉄砲を飛ばしたり、親父が作るものはいつも一番だった。誰よりもよく飛び、綺麗だった。僕はいつも自慢していた。「勝負すっか?」
父親の作ったもので負けた記憶がない。小学校に入ると、グライダーやバルサでできた飛行機を作っていた。飛ばなかったり失敗したりすると、親父の膝に入り、
修正してもらった。次の日の放課後。僕の飛行機は誰のよりも飛んだ。夏休みの工作もたくさん賞をとった。
プラモデルもたくさん作った。作るとまた新しいものを買ってくれるから、また作る。プラモデルは船をたくさん作った。
父親が好きだった。今となっては名前も思い出せないが、大小100以上あったと思う。
比べて年後の弟はこのたぐいのものはからきし駄目で、外で遊んでばかりいた。(おかげで弟は運動神経万能だった。)
盆、正月には親戚や親父の知人から2人分のプラモデルをもらい、時間を忘れて一人で作った。
高学年になると時計をばらしたりしだした。ありがちな幼年期を親子6人で楽しく過ごした。
成人を前に料理の世界に入り、上京し、24才で渡伊。ますます九州は遠くなり、帰省することも少なくなり、
幼馴染とも疎遠になり、帰る理由が見当たらない。そんな横着な理由だった。
僕の父はとても器用な人でした。
職種は違うが、まぎれもなくこの手を与えてくれたのは父の血だと思う。
書ききれないほどの思い出、辛いこともあったね。
すべてを感謝しています。
享年80歳。脳挫傷にて永眠。
看護婦さんで私のことをご存じの方がいらっしゃいました。再びご覧になっているかなと思い、
(先生も)ここに再びお礼申し上げます。看病頂き、有難うございました。
喪主:長男 永松信一